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【第123回/音楽理論】

この言葉、それ自体が既に矛盾しています。
音楽は、理論や理屈ではどうにも説明しようがない存在だからです。
そんなことは承知の上で、人間は「感動の理由」を求めます。
「今の音楽メチャ良かったんだけど、コレ、どうやって出来てるの?」
それを多くの曲で調べ整えたものが、俗に「音楽理論」と呼ばれるものになったのだと思います。

例えばコードの話、Cmaj7。
これは、Key of Cだとトニック機能を持つダイアトニックコードでAvoid NoteはFになるが、Key of Bmで使われるとノンダイアトニックコードとなり、機能はサブドミナントマイナーでScaleはLydian、よってNo Avoidとなる、…なんてことを勉強します。

私は作曲をする時、このような音楽理論を、意識的にも無意識的にも必ず使っています。
よって自分にとっては、信頼出来る良き友人とも言えます。

でも、音楽家の中には、このようなことに全く興味を示さずに音楽活動を続け、多くの聴衆に素晴らしい感動を与えてくれる人もいます。
逆に、音楽理論にメチャ長けていて話も分かり易いのに、自分では演奏も作曲も全くしない人だっています。
それぞれ、音楽理論との付き合い方を理解している良き結果なのだと思いますが、多くの人たちにとっては、なかなかそこまで踏ん切りがつきません。

大切なのは、音楽理論に対する立ち位置。
理論なんて、それ以上でもそれ以下でもないのです。
そこさえ押さえておけば、無用のコンプレックスを感じる人や、アーティストの苦労に思い至らない冷たい評論文は減ると思います。

人間関係だって、距離感の作り方、大切でしょ。

= 2020/09/10 杜哲也 =



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