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【第140回/“美女”は消えますか?…を読んで】

今年米寿になる作家・筒井康隆さんによる一文、「“美女”は消えますか?」を読みました。(文藝春秋2月号)

使用してはならない語句が増えていく危機感、…これを語っています。
今や、「主人」や「奥さん」も使わない方が無難。
「戦争反対」のような安全な語句ばかり氾濫する中、誰かが「戦争が好き」と言わないと議論は深まらない…と、ここまで書いてしまう過激さ。
これが、筒井康隆の真骨頂だったことを思い出します。
(…私は中学時代、彼の作品を読み漁っておりました。)

ヒトは、その語句を禁止されても、本能的に別の言葉に置き換えて表現を続ける生き物です。
「美女」が禁止されても、「もっと下品な言葉で、いくらでも置き換えはできます」と、筒井さん。
(…う~ん、読んでみたいッ?!)

彼の思いは、明らかに、表現者たちに向けて発せられています。
表現の自由を守らねばならない最前線の人たちに向かって、「なぜ戦わないのか!」と憤っており、ツイッターで「いいね」を押す人たちは相手にしてないのです。

一方で筒井さんは、言葉が差別や暴力になることを熟知していて、表現の自由を盾に、無茶苦茶な論理を展開している訳ではありません。
ネット上での無責任な書き込みによって、自ら命を絶つほど思い詰めてしまう一昨年の悲しい事件を取り上げ、人間は匿名状態で安全な場所にいると如何に残酷な存在となるか、について警鐘を鳴らしています。
更には、「表現の自由か人権かと問われれば、一も二もなく人権」と言い切っています。

過去の一時期、断筆宣言をして戦った筒井さんだからこそ書ける、説得力のあるこの一文には、誰に対しても媚びへつらうことのない自信と重みを感じました。
…是非とも、こんなカッコイイ爺さんになって生を全うしたいです。

= 2022/02/08 杜哲也 =


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