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【第142回/征服と昇華】

日本では、今月からウクライナの首都名が、「キエフ」でなく「キーウ」になりました。
固有名詞は当事国の言葉で…という趣旨に加え、ロシア語からの解放という意味もあり、概ね好感を持って受け入れられています。

一方、日本の国名が英語で「Japan」となっていることに、日本が異議申し立てをする空気は全く感じられません。
むしろ、「Japan」に愛着を感じる日本国民は多いのではないでしょうか。
キエフは使わないがJapanはそのままで…、このことは、日本人の気質をよく表している気がします。

嶋田珠巳さんという言語学者が書いた「英語という選択」(岩波書店)を読みました。
ここでは、アイルランドで実際に起こった「言語交替」について分かり易く書かれています。
アイルランド憲法では、第一公用語はアイルランド語、第二公用語が英語、と規定されていますが、実際には2022年の今日、言語交替はほぼ終わっていると言います。
つまり、母語としてのアイルランド語を話す人が、どんどん減っています。

これは、英語を使う方が経済的恩恵に預かり易い、というだけではありません。
嶋田さんの書き方に準ずると、地方から東京に向かう若者たちが、方言丸出しで恥ずかしい思いをしないよう配慮する肉親と同じ感覚で、アイルランドの母親たちは自分の子供たちを英語で育てるのだそうです。

音楽に当てはめると、分かり易いかもしれません。
私にとっては、ロックやジャズこそ「母語」であり、能や浄瑠璃は完全に「異文化」です。
学校の音楽室には西洋楽器ばかり置かれていて、テレビやラジオからはドレミファソラシドに基づく音楽が毎日流れる中で育ちました。
私は、そのことを「嫌だな」と思うことが全くなくて、むしろ十分に音楽から感動を貰いました。
恐らくアイルランドの母親たちの心境も、それに近いものだと思います。

言葉や音楽は軍隊ではなく、文化そのものです。
文化には感動があり、征服した征服された…という問題を吹き飛ばしてくれます。
それらが昇華されれば新たな文化が生まれますが、征服には必ず重いリスクが伴います。
人類が積み重ねてきた歴史は、そんなことの繰り返しなのですから。

= 2022/04/19 杜哲也 =


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