column
【絶対に相対です】
音楽は、他に代え難い感動を与えてくれる一方で、時として非常に邪魔なものにもなります。
つまり、ここで1曲やってよ…という時と、こんな時に音出すなよ…という時がはっきり分かれます。
また、大好きな作品であっても、どんな場面で誰と聴くか…などにより、その音楽の良さが伝わりにくいことがあります。
そんなことから私は、音楽というものは相対的な存在であって、「絶対素晴らしい音楽」というものはない、と考えています。
あるのは、「ここでは」絶対素晴らしい…という実に相対的な判断。
例えば、全く初めての音楽を耳にしたとします。
多くの人は、誰がどんな目的で作ったのか…とか、誰がどこで演奏しているのか…など、作品の背景に興味を持つことでしょう。
もしそれらが不明だと、音楽自体どうも耳に入って来ない…ということもあるかもしれません。
これこそ、音楽が相対的な存在であることを証明しています。
音楽家の人生は、各人が「絶対素晴らしい」と信じる音楽のために技能を磨くのと同時に、それが正しく評価される枠組みも一緒に創っていく作業である気がします。
ところで、音楽の世界で「絶対か相対か」と言えば、音感教育の話が思い起こされます。
私は上記のような考え方のせいか、相対唱法の方が楽です。
ただしそんな私でも、初めて見る譜面を演奏する時など、絶対音名で読む場面があります。
結局どちらの音感も大切なので、論争は終わらない…と理解しています。
この話をちょっと乱暴に、「好きか嫌いか」という視点から見ますと、これはもう「絶対に」相対音感が好きです。
ひとつの音が、見方を変えることにより、主音にも属音にも導音にもなる…って、何だかとても素敵なこと。
この世の不条理を、この時だけ救ってあげられたような気持ちとでも言うのでしょうか。
日頃から、人生の幸不幸は、その人が良き居場所を得られているかどうかで決まってくる気がしていますので…。
2011/03/01 杜哲也