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【第101回/私の練習方法】

演奏家にとって楽器とは、料理人にとっての包丁、書家にとっての筆、手品師にとってのトランプ、外科医にとってのメス、大工にとっての玄能、…などと同じ。
つまり、その道具を如何にうまく操るか、が命。
とにかく毎日楽器に長時間触れて、あたかも自分の肉体の一部となるような姿勢が大切でしょう。

そこで、(九条の芦田修正風に言うならば…)前項の目的を達するため、弾く「材料」が必要となります。
実は、こちらが曲者。

その材料を目から取り入れて手に降ろしていく…、これが読譜と呼ばれ、クラシック系の演奏家はこの訓練に明け暮れて育ちます。
そしてこれは、肉体成長期にあたる14歳くらいまでには一通り終えるべきで、それを過ぎてからの技術習得はなかなか困難になります。
つまり、頭脳や精神の成熟を待っていると手遅れ…。

私は、主に作曲の学習のため、20歳ころからピアノを弾き始めました。
当然、ピアノを演奏してギャラを頂くなんて考えは微塵もなく、結果として「練習」なるものはほとんどしたことがありません。
その方法が見えてきたのは40歳を過ぎてから。
ピアノの職業演奏家としては、甚だしい遅刻でありましょう。

その頃とある先輩ジャズ・ミュージシャンが、オリバー・ネルソンの「パターン・フォー・ジャズ」という楽譜を貸してくれました。
これは学習教材としては何とも不親切な代物で、1~2小節の単旋律が延々と移調されてページが埋められているだけ。
(しかもたまにミスプリもある…。)

これをどうやって使うかは学習者次第なのですが、大して期待もせずに弾き始めると…、楽しいのなんのって。
ああ、ピアノってこうやって練習するのか~。
それから約10ヶ月、練習が楽しくて仕方のない日々が続きました。

しばしば、ポピュラー系楽譜の品質の悪さを嘆く声を耳にしますが、そもそもポピュラー音楽における楽譜の役割はクラシックとは全く異なります。
ポイントとなるのは、使う側の目的や方法。
それらを横に置いた状態で低品質を嘆く姿は、すべての責任を行政になすり付けて「国は何もしてくれない…」と政府批判しているに等しいのです。

(…長くなったので、続きは来月。)

=============== 2019/01/02 杜哲也



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