【第138回/前代未聞】
音楽家や役者にとって、本番は命です。
先日、身近なところで前代未聞の事件がありました。
事もあろうに、協奏曲のソリストが本番直前に「逃亡」したのです。
協奏曲のソリストと言えば、芝居で言うなら一座の看板役者。
そのステージに対しては、指揮者を上回る絶大な権限を持ちます。
会場は国内屈指の大ホールで、オーケストラには日本を代表する奏者がズラリ。
メインプログラムはベートーベンの第九。
演奏会前半に、毎年選ばれたソリストによるピアノ協奏曲「皇帝」が演奏されます。
もう40年以上続いている、師走の名物演奏会と言って良いと思います。
恐らくは、山のようにいるピアニストたちの中から選ばれた、極めて優秀なプレイヤーなのだと思います。
そして、指揮者や楽団員を始め、関係スタッフやお客様と共に力を合わせてその日を迎えた筈です。
ゲネプロ(=通し稽古)も終わり、あとは開演のベルを待つだけ。
音楽家にとってもお客さんにとっても、至福の時が刻々と迫ります。
「事件」はそこから。
楽屋で休むピアニストの過呼吸が始まりました。
気を利かせた関係者の声掛けにより、たまたま居合わせた医師が楽屋に入ります。
医師「…特に何もありませんが」
ピアニスト「いや駄目、ステージには行かれない」
無意味な押し問答が繰り返され、時だけが経過します。
医師側にはイベントを取り仕切る企画会社が付き、ピアニスト側には発狂寸前の旦那さんが付いて、緊迫の「攻防戦」が始まります。
この間、開演を待つお客様には何も知らされないまま、「絶大な権限を持つ」ピアニスト側が「勝利」します。
音楽家や役者にとって、本番は命です。
音楽家は皆、その日その時のために身を削り、投資を惜しまず、正に人生を懸けて努力し続けるのです。
…この話にはオチがあります。
この日の指揮者は大ベテラン。
当日は、彼を慕う若者が付き人として身の回りの世話をしていました。
何とその若者が、リハなしの「代役」として見事弾き切った、ということです。
メデタシ、メデタシ…。
= 2021/12/04 杜哲也 =