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【第150回/“新しい和声”と“島岡和声”】

気になっていた和声教本「新しい和声」(林達也・著)を、やっと購入しました。
評判通り中身はとても濃いもので、これから死ぬまでずっと側に置いておきたい素晴らしい書籍です。

一方で、私は正に「島岡和声」で学んだ世代です。
ここでは、理解し易い平易な言葉に加え、説明と実習をこまめに繰り返す緻密な構成で学習者を引っ張り、私のような「ロック上がりの音楽家」でも着実に前に進むことが出来るように書かれています。

「新しい和声」の本文では、この「島岡和声」については全く触れられていません。
その代わり、出版社によるキャッチコピーや大学教授からの推薦文には、深い敬意に基づいた島岡批判がなされています。

それら批判の肝に当たるものは、「和声のパターン化」と「独自の和音記号」。
本文で触れられてなくても、林達也さんご自身がそのふたつを意識しているであろうことは、容易に想像がつきます。

遠くから眺めた言い方をするなら、二者択一ではなく、同じ山を別ルートから登るに過ぎないと思うのですが、「新しい和声」を一読した感想としては、音楽教育の現場における「島岡和声」の使い勝手の良さはそう簡単には崩れないのではないか…という印象を持ちました。
理由のひとつとして、「新しい和声」は学習者に「ピアノを弾いて解答させる」ことが上げられます(…特に本の前半)。

「島岡和声」を学んでいる頃の私(=20代前半)は、ピアノで四声体を弾ける能力はなく、和声学習は同時にピアノ学習でもありました。
これは、ソルフェージュ能力についても同じで、つまり、私のような基礎能力に乏しい音楽学習者が和声に挑む場合、視覚的な裏付けが得られる五線の存在はとても大きいのです。

日頃から、「楽典」にしても「ピアノ教本」にしても、同じ本ばかり売れ続ける状況には、何か抵抗を感じていました。
これから少しずつ「新しい和声」を紐解き、著者が言わんとする和声の真髄に少しでも近付きたいと思います。

= 2022/12/22 杜哲也 =

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