【第153回/作品を“残すこと”と“広めること”】
――まず、“残すこと”。
同じ芸術でも美術は、壁画、彫刻、石器など、残された資料から何千年・何万年も前の人類がどのような美意識で生活していたかを、ある程度伺い知ることが出来ます。
一方、音楽はその場限りで消えてしまうため、その時々の生活がどのような音色に彩られていたのを知るのは、せいぜい数百年という単位です。
その意味から、19世紀の終盤にトーマス・エジソンが発明した蓄音機は、音楽史を根底から覆す大事件だったと思います。
それを裏付けるように、20世紀にはサブカルチャーとしての音楽が急速に発展し、それまで使い捨てにされてきた世俗音楽家たちが一躍脚光を浴びるようになりました。
――次に、“広めること”。
多種多様な記録物が揃っていても、今を生きる民衆たちがそれらを手にして、見たり聞いたり、学んだり楽しんだりしてもらわなければ意味がありません。
レコードであれば放送や映画で使ってもらうこと、楽譜であれば印刷して流通ルートに乗せること、などが大切であり、その為にはそれらの実権を握る放送局や出版社など、大きな組織力が(これまでは)必要でした。
そして、20世紀のミュージシャンたちは、何とかしてそれらに認めてもらうため、涙ぐましい努力をしたはずです。
しかし、パソコンやスマホの普及は、そういった努力を吹き飛ばしてしまいました。
――私は、良い作品というのは、“残す・広める”よりも前に、“残る・広まる”ものだと思っています。
そして、自分が生きる現代社会は、そういう健全なものであって欲しいと願っています。
21世紀も四半世紀近くが経過した今、“残すこと”も“広めること”も、個人の力で相当なレベルまで実現可能な時代です。
作ることが何よりも好きで、そこに無限の価値を感じる多くの同志の皆さんと共に、人類が手にしてまだ歴史の浅いこの幸せなネット環境を、楽しみながら育てていきたいです。
= 2023/03/26 杜哲也 =