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【第155回/時代性と表現】

先日、初めて使うサロンホールの下見に行きました。
スタッフの方が「25年以上は営業している…」とおっしゃっていましたが、外観も内部もとても綺麗で、管理されている皆さんの真摯な営業努力が十分に感じられました。

ホールの中に入るまでの通路には、幾つかの段差がありました。
バリアフリーが進んでいる現代社会ではあまり体験しなくなっていたので、ある種の懐かしさを覚える自分にビックリしました。
そのホールは、楽器屋さん直営の民間施設です。
開業当時の社会には、ホール面積を減らしてまでスロープを設置する空気はなかったのだと想像します。

音楽にも、当然、時代性が付いて回ります。
特に、流行の移り変わりに敏感な大衆音楽は、時代を先取りするセンスが求められますし、その提供方法は変革の影響をモロに受けます。
私の世代で音楽体験の主流だったテレビやレコードは廃れ、若者たちはスマホで音楽を楽しみます。
オリコン・チャートという言葉は、再生回数という言葉に取って代わられました。

私が中高生の頃、作曲をしてしまう人には、それだけでもう憧れや尊敬を感じました。
無から有を生ずる創造行為は、どんな優秀な機械でも成し得ない尊いこと…と信じてきましたが、どうやらそこさえも変わりそうな空気です。
過去の音楽遺産を大量に学習したPCに「△△風の作曲」を発注すれば、立ち所に納品してくれる時代になっているそうです。
これは、多くの棋譜を教えられたPCとプロ棋士が対局して、人間が負けるのと似ています。

確かに、産業構造の大きな変革期を生きている実感はあります。
そんな中、自分に出来ることは本当に限られていて、特にライブ活動は何と手間の掛かる方法なのだろう…と思う一方、これこそが表現活動の王道だという気持ちは強いです。
今の中高生たちが社会の中核として活躍する頃、音楽家たちはどのような方法を選んでいるのか、とても興味があります。

= 2023/05/18 杜哲也 =


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