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【第165回/憲法解釈を吹っ飛ばすもの】

ま、別に、憲法じゃなくても良いのですが、「憲法」と書くと一番偉そうなので、このタイトルにしました。

きっかけは、札幌高裁の違憲判決。
この判決と、長年気になっている「9条解釈」との整合性を並べると、最も分かり易いかな…と感じました。

言葉というものは、解釈次第でかなり幅広い受け留め方が可能です。
札幌高裁の判決に、私は解釈の限界を感じました。

24条「両性の合意に基づいて成立」や、9条「戦力を保持しない」について、民衆がどう解釈しようとも、最後は時の権力者によって如何様にも判断されてしまう…という悲しい現実があります。
つまり私は、裁判所という所によって決めて欲しくない。

こういう難しい問題は、権力者がバサッと決めるものではなく、民衆たちの思いが積み重ねられることによって、形が見えてくるものだと思います。
そこには、明確な答えはありません。
では、民衆の思いとは何か…と言うと、それこそが表現活動です。

人間という存在は、ちっぽけ、かつ不確かなものです。
しかし、そんな人間社会が、政治や判決によって動かされるよりも、表現活動によって動かしていく方が遥かに真っ当です。

裁判や政治に使うエネルギーを、多くの人たちが表現活動を向けるようになれば、各人の思いは必ず社会に反映されます。
投票は確かに尊い行為だと思いますが、表現活動にはそれを上回る…いやむしろ、吹っ飛ばすパワーがある、と信じています。

= 2024/03/18 杜哲也 =


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