第174回/作曲と演奏
作曲という言葉は、かなり広い意味で使われています。
職業柄、今でも度々「体験レッスン」なるものをお受けすることがあり、その席では、私から提供できる作曲技法をなるべく具体的に説明するよう努めています。
そうしないと、例えば現代だと「作曲はパソコンでするもの…」というお考えの方もいらっしゃるので、私では全くお役に立ちません。
もし、「五線紙を使う音楽」に限定した場合でも、まだまだ分かれます。
例えば、古賀政男、ベートーベン、チャップリン。
お三方とも素晴らしいクリエイターですが、残された作品を見る限り、何を大切にして何を学んできたのか、評価は大きく分かれる「作曲家たち」だと思います。
私の場合、作曲する際のポイントは何処にあるのか…を考えてみました
最近それは、「演奏に参加するかどうか」にあるような気がしてきました。
年齢を重ねるに連れ、作曲と演奏の分業に対する違和感が強くなっています。
どうやら私は、作者が演じ手の細部まで決めてしまう演出に対して、抵抗が強いようなのです。
実際、近年私が書いてきた曲の初演は、私自身が演奏に参加しているものばかりで、五線紙を送って「ハイ、おしまい」となるものは、ほぼなくなりました。(…というか、当初からその手のお仕事の多くは「作曲」でなく「編曲」でした。)
私の興味は、自分の音楽を提供することにあり、書くことはその一過程に過ぎません。
ですから、その最終過程である「演奏」にも執着するのだと思います。
それこそが、私の個性に見合った作曲スタイルであって、更に言うと、自分を含めた演奏者のプレイは毎回異なるので、音符としては書く意味がないのです。
ヨーロッパでは18世紀初頭まで、作曲と演奏の境目はそうそう厳格ではなく、「作曲専門」というお仕事は近代の産物です。
私にとっては、そんな専門職が出てくる前こそが、西洋音楽の佳き時代でした。
また、私が仕事場で巡り合う優秀な演奏家たちのほとんどは、自らも譜面を書く人たちです。
そんな所にも作曲と演奏の一体性が表れていますし、私にとってはそのような素敵な人たちとの交流こそ「次の作曲」へ繋がります。
これまでの西洋音楽史は、作曲家を中心に語られてきた現実があります。
21世紀を生きる我々には、既に十分な音楽遺産が残されており、「作曲」の意味するところは一層変化していく気がします。
より広い意味で、「オリジナルの音楽を提供出来る力」こそ、これからの作曲に求められていくのだと思います。
= 2024/12/19 杜哲也 =