column
【第29回/“同意は取った”】
総選挙がありました。
今回、私の住む東京都では同時に知事選もあり、選挙中の駅前広場はそれなりに盛り上がっていました。
音楽家には、投票に行かない「無関心派」もいますが、逆に、反戦ソングを歌い続ける「社会派」もおり、それはそれで面白いと感じています。
総選挙・知事選挙と並行して、最高裁裁判官への「国民審査」もありました。
裁判官の名前に×を付ける、あの紙です。
この件、選挙の盛り上がりとは逆に、私の周囲でも報道でも全く話題に上りません。
言うなれば、ほぼ全員が「無関心派」。
テレビが競って選挙を取り上げるのは、立候補者を芸能人に見立てたバラエティ特番が成立するから…という側面があります。
その意味では、裁判官なんてタレント性ゼロ。
床屋談義にも出てきません。
でも、大きな権力を握っています。
日本銀行総裁や日本郵政社長を決める時でさえ、少しは報道されるでしょう。
投票所で、「×を付けますか」という選択を迫られる時、私は、PCに表示される「同意しますか」という画面を思い出します。
PCでは「yes」をクリックすると、当然それに沿って事態は進行します。
その後何か問題が生じても、相手方からすれば、「だってあなた同意したじゃないですか」となるでしょう。
裁判官の皆さんが、こんな方法によって、「だって皆さん同意したじゃないですか」なんて思っているとしたら、たまったものではありません。
丁度今、裁判所が「一票の格差」を根拠に、国会議員の身分を不確かなものにしています。
三権分立は、近代国家の常識。
国会側だって、こんな馬鹿げた「国民審査」によって守られている裁判官の身分を、厳しくチェックするべきしょう。
議員さんたちは、常に国民の目に晒され、批判を受けている自分たちの状況と比べ、同じ三権を預かる者としてあまりにも不公平だと感じないのでしょうか。
私は、「裁判官を審査する」ということ自体、直接民主主義には相応しくない…と考えています。
複雑な現代社会で大切な判断をする時、その道の専門家を代理人に立ててお任せするのは当たり前の話。
面倒であっても、そういう手順を踏むことによって、責任あるチェック機能が果たされます。
総理大臣を選ぶ時でさえ、国会議員にお任せです。
日銀総裁や郵政社長だって、似たようなものでしょう。
今の「国民審査」は、裁判官のためのアリバイ作り。
総選挙の度に、日本中の投票所でこの馬鹿げた「同意書」の取り付けをしている…と考えると、何だかクラクラしてきます。
司法のあり方については、ジャーナリストの江川紹子さんがとても関心を持たれて発言を続けています。
私が、選挙期間中唯一目にした「国民審査」に関する報道も、ヤフーニュースに載った江川さんの署名記事です。
因みに、上記の私の意見とは異なるものでした。
何事も、まずは様々な意見が出ないと始まりませんね。
2013/01/01 杜哲也
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