column
【第30回/音楽と状況】
私は、中学校に入った時に三畳程度の自室が与えられ、その後程なく、ソニーのラジカセstudio1700を買ってもらいました。
今思うと、このふたつの事象は、自我の形成や音楽の原体験を作る上で、実に大きな出来事でした。
親の監視下から離れて、外の世界と繋がりました。
初めて聴く洋楽に心躍らせて、翌日学校で友と語る喜びを覚えました。
この時すでに私は、音楽それ自体を味わうのと同じくらい、その「状況」を楽しんでいたのだと思います。
ラジオから流れる音楽を一通り聴き終えると、番組では話題にも上らないバンドやアーティストを発掘し始めます。
ロバータ・フラック、カーペンターズ、ギルバート・オサリバン、カーリー・サイモン
↓
キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、EL&P、ジェネシス、イエス、フォーカス
↓
ジェントル・ジャイアント、ナショナル・ヘルス、キャラヴァン、セバスチャン・ハーディ、ロバート・ワイアット
↓
コルテデイ・ミラコーリ、アルティ・エ・メスティエリ、ノヴァ、クリアライト、ヴァレンシュタイン
…のように、進んで行きました。
音楽を聴いていたのか、状況を楽しんでいたのか、境界線はかなり怪しくなっていきました。
今振り返ると、このことは10代特有の未成熟な心理状態ではなく、人間の持つ普遍的な価値観ではないか、と思うようになりました。
つまり、音楽を提供する時の状況設定はそれだけ大切であり、それを抜きにした「良い曲」「良い音楽」なんてものが、そもそもあるのかどうか。
その状況下にマッチした音楽を、そこにいる人たちが「良い曲だね~」と呼んでいるに過ぎないのではないか。
音楽家としては、どんな状況下にも対応出来るよう、日々能力を磨き続けると共に、自分の信ずる音楽が「良いね~」と言ってもらえる社会状況を作ること、この両輪が成立してこそ、表現は丸く繋がるのだと思います。
2013/02/01 杜哲也
《homeに戻る》