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【第48回/バランス感覚】
先日、友人と話していて、演奏会での観客動員の話になりました。
今夜これから、果たして誰のために演奏するのか。
経済視点で判断するなら、社会から望まれている演奏とは考えにくい。
望まれていない演奏をしに行くのか。
逆に、望まれる演奏だけをしていれば良いのか。
このことに対して、以下のふたつの立場があるように思います。
ひとつめ。
音楽家たるもの、周囲にどう評価されようとも自分の信ずる音を出し続けるべき…という立場。
価値ある音楽には、それに応えてくれる聴衆や仲間が必ず現れます。
主体はあくまで自分側にあり、分かる人に分かってもらえればそれで十分。
結果として社会や家族から孤立したり、変わり者というレッテルを貼られたりしても、その人の中で何かが揺らぐことはあり得ません。
ふたつめ。
音楽を提供する時は、常にお客様のことを第一に考えるべき…という立場。
何と言っても大切なのは、お客様の笑顔や拍手。
当人たちも、次はどうやって客を喜ばしてやろうか…ということに必死で、表現者でありながら主体はむしろ相手側。
結果として、時代や場所に合わせて芸風を変えることなりますが、客の要望に応え続けること自体そんなに生易しいことではありません。
ふたつの立場は一見真逆のようですが、実は相反していないと思います。
過去知り合ったほとんどの心ある音楽家たちは、双方の心を合わせ持っています。
要は、バランス感覚の問題。
…だとすれば、私は軸足を俗人に置いておきたい方です。
音楽を学問のように捉えている人たちの姿勢にはいつも敬服させられるものの、反面、その音楽自体には今一感動したことがないのです。
そして、俗人が周囲の力によって多少なりとも自分を向上させていく…という方が自分に合っている、と感じるからです。
2014/08/13 杜哲也
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