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【第53回/コードスケールと社会】

かなり長いこと「ジャズ理論」と呼ばれるものを指導しています。
コードネームに従って即興演奏をしていくための、理論的な裏付けとなるものです。

「即興」という言葉が「ジャズ」を連想させるためか、「ジャズ理論」と呼ばれることが多いのですが、個人的にはあまり良いネーミングだとは思いません。
他に先駆けて、米国バークリー音楽大学で教えられてきた方法論のため、「バークリーシステム」と呼ばれることもあります。

ネーミングはさておき、このメソッドの中心となるものが、「コードスケール」と呼ばれるものであることは間違いないでしょう。
つまり、Dm7ではDドリアンを使え…という例の代物。
そして私は、(長年教えていながら)どうにもこれが納得行きません。
原因と結果が逆のような気がするのです。
(よって、少し別の角度からも論ずるようにしています…ここでは略。)

フレーズを作る時にコードスケールを拠り所にする…というのではなく、過去のフレーズを分析してみた結果そこにはこんなスケールが出てきた…という方が遥かに納得出来るのです。
勿論これは、「鶏と卵」の話に通ずることであり、どちらが先かを決めるのは困難だと思います。
ある意味、私の日頃の鬱憤が「そうであって欲しい…」と願っている面があります。

社会には様々なレールがあって、それに乗っかると「勝者」乗れないと「敗者」…と決められてしまうことがあまりにも多いのです。
凄いのはレールを敷いた人であり、そのレールに疑問を感じる人たちです。

ドリアンというレールに乗ることより、そこにドリアンがなくても即興していこうという人たちが認められる社会になって欲しい…と願っています。

2015/01/17 杜哲也


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