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【第57回/作曲と編曲】

「作曲と編曲はどう違うのですか?」
しばしば尋ねられます。
思いつくまま書いてみます。

まず、経験した仕事量のお話から。
私がこれまでに書いてきた音符は、作曲よりも編曲として書いたものが圧倒的に多いのです。
因みに作曲編曲以外には、教材や採譜などとして音符を書いてきましたが、それらのどれと比較しても編曲として書いた音符量には到底かないません。
恐らくこれは、世の中の需要と供給のバランスによるものと思います。

次に、充実感のお話。
書き終えた後の達成感、これははっきり言って甲乙ありません。
作曲か編曲か…という比較はナンセンスで、納得出来る仕上がりかどうかによるだけ。
自分にしか出来ないものを書き上げた時の充実感は、音符を書き続ける意欲を毎回後押ししてくれています。

次に、技術的な問題。
音符を書くために必要な技術としては、両者にそう大きな違いはないように感じています。
和声を大切にしながら旋律を書いていくこと、構成感を大切にした発想のアイディアなどなど、作曲でも編曲でもそのまま当てはまります。
必要となる資料の集め方にも、そうそう違いがあるとは思えません。
強いて言えば、作曲には他者を気にしない芯の強さが必要で、編曲には周りを思いやる優しさが大切…のような気がします。

次に、自由の度合い。
音符を書くにあたっては、自由な発想を土台とする空想から始まります。
作曲も編曲も、そこから徐々に絞って行き、空想を現実のもの(=音符)にしていくのです。
その時、自由の度合いは作曲の方が俄然大きいです。
作曲は、ともすると自由の度合いが大き過ぎて手に負えず、私にはやや不向きな感じもしています。
人生、少しくらい制限があった方が良い…ということでしょうか。

最後にそれぞれの目的、何のために書くのか…を考えてみました。

編曲は毎回話が簡単で、実にはっきりしています。
こういう演奏会でこういった編成、この場面にこのくらいの長さで…といったことが大変明確。
一方の作曲は、もう少し哲学的とでも言うのでしょうか。
音符を書く…ということは、他のすべての音符を切り捨てることでもあり、そこに必然性がなくてはなりません。
つまり、編曲はその部分がイージーで作曲はヘビー。
作曲は、書く目的を他からの力に依存せず、自分で切り開く精神がないと続きません。
これは結果として、新曲披露の場面というものが聴き手の為にあるのではなく、むしろ書き手の発露の為にあることが多い今の音楽状況に現れている気がいたします。

ここまで書いて気付いたことがあります。
作曲と編曲の違いよりも、尋ねて欲しいことがあるのです。
◆自分がその演奏に加わるのか、加わらないのか
◆音符で表現するのか、他の方法で表現するのか

…ほとんど尋ねられませんが、いつか書いてみたいと思います。

2015/05/16 杜哲也


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