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【第65回/1票の格差】

毎年甲子園球場には、全国の地区予選を勝ち抜いた高校が勢揃いし、熱戦を繰り広げます。
夏の大会の出場校は、各都道府県から概ね1校ずつの49校(北海道と東京だけ2校)。
その出場枠に対して、各県の人口や学校数による不平等を嘆く声はそうそう聞かれません。
この国民的な大会に各県1校の枠を守ることは、数字上の平等よりも大切であるということが、暗黙のうちに理解されているものと思われます。

各鉄道路線にある、急行停車駅のことを考えます。
どの駅に急行を停めるかは、基本的に乗降客数の多い少ないで決められるのだと思います。
しかし、大きな駅に急行が停車するのか、急行が停車することによって街が発展するのか…は分かりません。
そんな前提に立ったとしても、そのことによって小さな駅が鉄道会社を訴えたら、笑いものになるだけだと思います。

ドレミファソラシドという西洋音楽の枠組みがあります。
7つの音は、決して平等ではありません。
ドにはド、ソにはソのお仕事があり、7音それぞれが自分の役割を果たすことによって心打つ名曲が生まれます。
そこでは、レがミに嫉妬することはありませんし、ファがラの処遇に不満を持つこともないのです。

国際連合を構成する200近い国々の中で、5ヵ国だけには安保理で「拒否権」なるものが与えられています。
(…因みに同じ5カ国だけが、国際的には“原爆を保有してよい”ことになっています。)
国連を運営する予算も決して各国一律ではなく、それぞれの国が自国の経済規模に応じた責任を果たして行くだけです。
安保理の1票にも運営予算の拠出金にも真の平等はあり得ず、人間の作るものはそうやって回っていることが少なからずあるのです。

選挙における1票の格差は、少ない方が良いに決まってます。
でも、人間社会にある不平等は、極力受け入れながら前に進む方が好きです。
私は、平等よりも遙かに大切なものは、自由だと思います。

2016/01/16 杜哲也


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