column
【第77回/自分の仕事】
「自分の仕事」と呼べるもの、…それを思い切りやれれば、私は本望です。
心からそう思います。
だって、まずほとんどの場合、そう呼べるものと出会う…そのこと自体が難しいじゃあないですか。
もし幸運にもそれに巡り合えたなら、それはもう、やるっきゃないでしょ。
そんな、「自分の仕事」になかなか巡り合えない理由は、大きく言ってふたつあるように思います。
ひとつめは「ないものねだり」。
多くの場合、「自分がその服を着ても似合わない」ということを受け入れるのに、50年くらい(…いやもっと?)掛かってしまうのではないでしょうか。
特に音楽というジャンルは、ちょっと煌びやかなものにクラッとしたり、やたら凄い肩書にひれ伏してしまったり…、そんなことが沢山ある社会。
「他人はどうであれ、自分はこうやるッ」という心境に至る…、これがなかなか難しい。
ふたつめは「社会的な責任」。
複雑な現代社会、「自分の仕事」だけをやっていればOK、なんてことはまずあり得ません。
人それぞれ、生まれた環境や置かれた状況によって、泣く泣く背負わされた「お仕事」があるはず。
それを乗り越えて(…もしくは投げ捨てて)「自分の仕事」をやるには、どうしてもある程度の年月が必要なのです。
私の好きな作曲家の一人に、ジョージ・ガーシュインという人がいます。
中学1年の時、デオダートの演奏で「ラプソディ・イン・ブルー」をAMラジオの深夜放送で聴いたのが、彼との出会いです。
当時よく聴いていた流行歌とは、明らかに異なるビートやハーモニーに夢中になりました。
その後、高校生の時、たまたま家にあったカセットテープにガーシュインのオリジナルピアノ曲が沢山入っていて、「ピアノ」という楽器に対するイメージが大きく変わりました。
ところがその後、クラシックの勉強をしていくと、ガーシュインの評価はあまり芳しいものではない現実に直面します。
当時の私は、「…これは低俗な音楽なのだ」と、自分に言い聞かせていたはずです。
…そんな馬鹿馬鹿しい出来事を何回も経験して、「自分の仕事」が何なのか、自覚していくのだと思います。
「自分の仕事」と呼べるもの、…それを思い切りやれれば、私は本望です。
本当に、心からそう思います。
→2017/01/21 杜哲也
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