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【第79回/部活指導の労働対価】

学校の部活指導をする先生方に対して、応分の労働対価がないということを知ったのは、卒業してから随分と年月が経過していました。
つまり、部活指導は「ボランティア」。

在学中、指導にあたる先生を「労働者」という眼で見る生徒はまずいないでしょう。
むしろ私が不思議に感じていたのは、「顧問の先生」という立場が、クラブによって何故こんなにも違うのか…ということ。

私の通った高校では、サッカー部の先生が大変熱心でした。
練習には当然毎日参加して生徒たちをリードし、部員たちにもその先生を敬う気持ちが満ち溢れていて、都立ながら強豪私立に負けない成績を収めていました。
一方、軽音楽部の顧問なんて、顔も名前も全く思い出せません。
何せ、ロックやフォークはその成り立ちがそもそも反権力であり、「教師に歯向かう」なんて基本中の基本ですから…。

やる気溢れる熱血教師は、「労働対価」を求めて顧問に就任するのではありません。
ところが法律は、部員が正月の国立競技場で校歌を歌うことに命を懸けるサッカー部顧問と、書類にハンコだけついている軽音楽部顧問を「平等」に扱うことになります。
「労働」に対して真っ当な対価が得られるようになった途端、軽音楽部顧問は「対価」お目当ての教師たちにとって「プレミアムチケット」になるはずです。

「平等」嫌いの私は、格差社会を奨励しているのではありません。
むしろ、格差是正はとても大切な政治課題。
スポーツや芸術にはくだらない法律を吹き飛ばす絶大な力があって、それこそが社会で最も大切にされなくてはならないものだと思っているのです。

→2017/03/04 杜哲也



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