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【第89回/公正な判断】

警察が事件の捜査をする際、当事者の中に友人知人がいる刑事はその担当から外されます。
刑事さんも人間ですから、自分の知り合いが有利になるような捜査や判断をするかもしれません。
極めて真っ当なお話だと思います。

サッカーの国際試合で審判を務めるのは、対戦するどちらのチームの国籍も持たない第三国の審判員です。
フィギュアスケートの審判員は、国籍で除外されることはないものの、6名の審判のうち最高点と最低点は切り捨てられ、残る4名の採点で順位が決まります。
「公正な判断」とはそれだけ尊いもので、これを獲得するため、各分野それぞれ様々な努力や工夫が続けられています。
その際ポイントとなるのは、「関係者は判断に加わらない」…これに尽きるでしょう。

転じて音楽に目を向けます。

音楽でも、入学試験やコンクールなどでは採点されて順番が付きます。
その多くのケースで、関係者が大切な判断に加わります。
それを改善しよう…なんて話は聞いたことがありません。
それどころか、「あの先生に採点されるのだから、あの先生のレッスンを受けておこう」…という、まるで逆の発想がまかり通る世界。

これは、音楽社会の閉鎖性を象徴しています。
同時に、音楽社会の特性もよく表しています。

音楽活動をしている人たちには、信じるものがあるのです。
自分の信じる音楽に対して「公正な判断」を求める時、どうしてもある程度の閉鎖性はついて回ります。
別の物差しを持ってきても、意味がありませんから…。

一方で閉鎖性というものは、人間にとって極めて便利かつ危険な代物。
自由な音楽活動は、多くの分野で大切にしている「公正さ」を犠牲にして成立していることを、肝に銘じたいと思います。

→2018/01/11 杜哲也


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