column


【第17回/音楽特殊論を排す】

音楽特殊論という言葉は、このコラムのために仮に作りました。

音楽を通じて、魅力溢れる人たちと多数知り合うことが出来るのは、私にとって掛け替えのない幸せです。
その中の一部の人たちに、ある共通の空気を感じる時があります。
彼らにとっては、音楽が極めて特殊な世界である…という前提がありそうな気がして、こう名付けてみました。

自分が身を置く世界に強い誇りを持ち、弛まぬ努力を続けてその道を極める…という精神で生きているのだと想像します。
その生き方、大好きです。
そしてそれは、音楽に限らず、演劇、彫刻、舞踏、野球、柔道、教育、政治、宗教…などなど、いくらでも考えられます。

いくらでもある…ということは、少なくとも「特殊」ではありません。
市場原理の尺度では測れないこれらのものは、人が人として生きていくのに絶対に必要なものです。
だからこそ、宗教法人に税制優遇措置があり、政党に交付金が支給され、私学には助成金を出し、舞台芸術には豪華なホールが無償提供されるのです。

橋下徹さんは、府知事だった時に「文化は行政が育てるものではない」と発言して、大阪市長に転身当選しました。
言葉としては乱暴ですが、文化人よ甘えるな…という趣旨には大賛成です。
どうせ行政の考えることなんて、クラシックには助成するがロックには助成しない…というレベルのものでしょう。
アテにする方が変、ということに気が付かないのでしょうか。

アーティストたちの逞しい表現欲がどのように満たされるべきか…ということは、誰よりもまず当の本人が解決すべき課題。
表現したい人は、皆、苦しみながら創り続けています。
だからこそ、出てくる音に感動すると同時に、その純粋で前向きな姿勢に胸打たれるのです。

そもそも、あなた方は特殊だから免除しますよ…という領域が、社会の中で広がっていくと収拾がつきません。
なぜなら、文化には麻薬のような要素があって、いくら貰ったら十分…などという「底」はないからです。

私にとって、音楽は明らかに特別な存在です。
しかし、社会には必ずしもそうは思わない人たちがいます。
ですから私は、不器用ながら目の前の仕事もやります。
そうでなければ、我が子だけが特別である…という発想のモンスターペアレントと、何ら変わりないじゃないですか。

2012/01/01 杜哲也