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【第20回/同一性保持権】

芸術作品をみだりに改変してはならない、というのがこの権利の本質と思います。
至極、当たり前のことです。
丹精込めて作り上げた作品が、作者に何の敬意も払われずに形が変えられていくのは、たまったものではありません。
実際、過去話題になった「おふくろさん/森進一」や「大地讃頌/PE’Z」では、原作者の権利が守られる形で収束しています。

実は、私のささやかな体験の中にも、自分の書いた曲が意図しない形に変えられてしまったことが何回かあります。
当然、あまり愉快ではありませんでした。
しかし一方で、「同一性保持」という「権利」については、どうも腑に落ちない面を感じています。
作品が、作曲者とは別の人によって一味異なるものに姿を変える…こんなケースは無数にあるからです。

ポピュラー音楽の世界では、「カバーバージョン」という言葉によって、確実な市民権を得ています。
クラシック音楽でも、「編曲」とか「トランスクリプション」という言葉は十分に浸透しています。
それらと「同一性保持権」は並び立たないのではないか…というのが、私の考えです。

◇ショパン「別れの曲」に歌詞を付けて歌ってしまうこと
◇サンサーンス「白鳥」をチェロ以外の楽器で弾くこと
◇ムソルグスキー「展覧会の絵」を管弦楽曲にしてしまうこと
◇イタリア・オペラを日本語で上演すること
◇バッハの曲をA=442Hzで演奏すること
◇組曲形式の作品から1曲だけを抜き出して演奏すること
◇協奏曲作品をピアノ伴奏で演奏すること

…これらを「仕掛けた側」に悪意があるとは思えないのですが、結果として原作者に不快な思いを与える可能性はあります。
しかしそれは、「興味のある存在に対してちょっかいを出す」という、人間の本能のようなものだと思います。

芸人なんて、見られてナンボ…の世界。
作曲者も、作品を世に送り出した瞬間から「ちょっかいを出される可能性がある」ということを覚悟すべきです。
箱入り娘が、いずれ社会の荒波に揉まれていくのと同じ。
荒波は避けられるものではなく、打ち克つべきと考えます。

特に、これは表現行為に関わる問題。
「****権」という名称を付けて法律で保護していくより、なるべく野放図な状態にして自由競争に委ねる方が、私は好きです。

しかし…。
もうひとつ、気になる問題を含んでいます。
手順の踏み方や仁義の切り方です。

表現活動なんて、ある意味エゴのぶつかり合い。
事前承認を取らなかった…とか、許可した後で原作者の気が変わった…というのは、崇高な芸術論とは別の「作業工程」の問題。
「同一性保持権」なるものについては、芸術論だけでなく、こちらの問題も論ずるべきと考えます。
「ちょっかいを出されるのはイヤだけど、あの男からならOKよ」という次元の話が、意外に事の本質を突いているからです。

このテーマ、いつかまた機会を改めて続きを書いてみたいと考えています。

2012/04/01 杜哲也